機会平等と敗者自己責任

機会平等の社会があったとする。
「敗れた」のは当人のせいで社会のせいではないとしよう。
機会が平等であるならば、敗れたのは「自分の努力が足りなかった」というのが、世の常である。敗北は自己責任ということだ。

では、機会平等の平等とはなんだろう? ということになる。
機会が平等に与えられているのに、結果を平等には選べない。

例えば、駆けっこで全員が同じスタートラインに立ち、仲良く手を繋いでゴールする幼稚園があるそうだが、これは走る機会は平等に与えられてはいるが、結果は平等ではない。

みんなが一等賞で、二等賞以下はなし。びりっけつもなしという異常な駆けっこだ。
走ることに意義があるのであって、結果は求めないということだろう。
結果を求めないのだから、結果(誤差)が仮に出たとしてもそこには敗者は存在しない。

しかし、これが通用するのは非社会までであって、

社会に出たら明確な結果が求められる。
勝者がいて敗者が存在する。

ただし、依然として機会は平等に与えられている。
機会が平等だというと、「どこが?」と思うだろうが、よほどのことがない限り、行動に規制はない。

規制はあっても、なんらかの組合せと手順によって解決、攻略できることが多い。
段階を踏むことさえできれば、総理大臣にだってなれるのだ。

問題はなにか? 機会は平等だが、組合せと手順が異なることである。
機会は平等でも、規格が揃っており、状況も同一で、同時間に着手できるわけではないのがポイントだ。
前述した幼稚園の全員揃ってのゴールのように、お膳立てがあって始めてみんなが勝者と成り得るわけで、機会平等には時間軸と組合せと手順という落とし穴があるのだ。

例えば、六面体のサイコロがあるとする。このサイコロの目が出る確率はそれぞれ6分の1であることが知られている。10人がそれぞれこのサイコロを振ると、確率は6分の1であるわけだから結果は平等である。
10人がどの時点でサイコロを振っても、結果は確率が変わらない限り一緒になる。

では、サイコロの目に合わせて1万円がもらえるとする。
1の目なら1万円で、6の目なら6万円だ。
確率は一緒なので、10人のプレイヤーはトータルで同じような勝率となるはずだ。

ところが、10人のプレイヤーに奇妙な現象が襲う。
6回サイコロを振ったとする。例えばAさんとBさんを比較してみる。

Aさんは6回サイコロを振ったら、1が3回、3が1回、4が1回、6が1回の合計16万円だったとする。

Bさんは6回サイコロを振ったら、1が1回、2が3回、5が2回の合計17万円だったとする。

こういう目の出方はありえるだろう。
二回目に振ったらこうだったとする。

Aさんは6回サイコロを振ったら、4が3回、5が1回、6が2回の合計29万円だったとする。

Bさんは6回サイコロを振ったら、1が3回、2が1回、5が2回の合計15万円だったとする。こういう目の出方もありえるだろう。

実際、私がサイコロを転がして書いた結果なのだ。

トータルでは、Aさんは45万円。Bさんは32万円となる。
Bさんの方が少ないが、Aさんとの差は140%になる。
確率は平等なのに結果には明らかな差が出る。

10人のうち、たまたま6の目が5回とか出る人もいるかもしれない。
66億人いればザラにいるだろう。
こういうのも有り得る話である。

つまり、機会平等というのは何度もサイコロを振ってみて、振り返ったときに始めて言えることなんである。

ゲームの途中経過だけみると、スコアにはバラつきが目立つが、確率が同じであれば、いずれ勝率は近似値を示すようになる。初期は乱雑さが目立つが、大数の法則で徐々に6分の1に近付いて行く。

この話にはトリックがある。
なぜかというと、時間軸と組合せと手順を無視しているからである。机上の空論である。組合せと手順というのはとても大事である。

例えば、100円のパンが売られていて、1000円を持っている男がいるとする。
その男がパンにお金を払わず先に食べたとする。これは万引きである。
代償を支払う用意があったとしても、手順を間違えるとペナルティーを受ける。
100円のパンと、1000円の所持金に関連性はまったくないのだ。
売買という儀式を通じて、異質な財を交換しているのだ。

それから、組合せである。
例えば、最悪と最良と普通の出来事が同等に起きたとする。

最悪・最悪・最悪・最悪・普通・最良・普通・最良・普通・最良・普通・最良

の組合せと、

普通・最良・最悪・最良・普通・普通・最悪・最良・最悪・普通・最悪・最良

とでは、意味が違う。

人生の最初のオギャーの時点で最悪なことが4回も続けば、5回目はないからである。
死んでから生き返ることが100%ない以上、最低限発生するイベントは、死なない程度の被害に抑えなければその先はないんである。

自殺や事故死をしたら、その後にどんなに確率が狂って、めくるめく幸せが訪れるとしても意味がないのだ。
幸せを感じる本人という担保がない幸せなんて意味がない。

最後に時間だけれど、人生には限りがある。

寿命があるのだ。
機会平等の社会で良い事も悪いこともあるかもしれない。今がたまたま悪い時期かもしれないし、良い時期なのかもしれない。それは後に振り返ってみて分かることで、トータルではトントンだったのかもしれない。

今の時点では次の時点で死なない以上分からないことなんである。
だから、自分が生きている時間の中で、組合せと手順が間違えずに済むような機会が与えられることを祈るしかない。

つまり、寿命を無視すれば機会平等の社会では敗者なんて存在しないのである。
なぜなら今日の敗者は明日の勝者かもしれないからだ。
敗者は現時点で鑑みると発生する幻想ともいえる。
いまもし敗者に思えるならば、できる限り長生きして、確率を平均化するしかない。あるいは人生最高の瞬間にぽっくり逝くか。

要するに、機会平等の社会のでは、敗者には社会責任はないが、自己責任はあるのだ。
自分が持っている時間の中で、組合せと手順というカードをいかに切るか?
機会は平等に与えられてはいるが、タイミングと組合せと手順の違いによって結果は変わる。
これがいわゆる努力というものだろう。

機会は平等に与えられているのだから、結果も平等でなければおかしい、と考える人は努力が足りない。
「なぜ私だけが…」と考えるのはナンセンスである。むしろ、「私こそが」と思っても差し支えない。
だってそれが平等だからだ。不平等である平等も与えられているのが真の平等だろう。

時間差があるだけで、トータルではトントンなのだ。
無時間感覚者は頭だけで考えて、結果をすぐに直近の原因と結び付けてしまう。
カードをコツコツと切る、という地味な努力をせずに、すぐに結果だけを欲しがる。
当然結果に反映されるわけがない。前提条件がまったく足りてないからだ。

もっともポピュラーな間違いは、努力は結果に結びつくはずだという考えだろう。
結び付かなければ誰かが責任を取らなければならない、と考えてしまうことだ。
せっかくの努力が報われないことで、誰かが自己責任をとるのならば、その責任は誰が取るのか? という話になる。責任の責任の責任は誰がとるのか? という堂々巡りとなる。

で、これを延々と責任追及していくと、結局、きちんとした努力をせずに結果だけを求めている人間が責任を取るハメになる。つまり、自分だ。
さらにこんなことが続くと、機会は平等に与えられることはなく、制限されることになる。

どういうことか?
自己責任を取れる範囲内での行動が許されるようになる。こういう社会下では、もちろんクリスマスに父親がサンタの格好をして、枕元の靴下にこっそりおもちゃを入れておくという大変危険な行為は厳罰に処されるに違いない。うん。

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