新自由主義の闇と経済犯罪

AIJ事件というのが問題になっていますが、この問題は根深いですね。
経済犯罪という言葉もよく聞かれるようになったので、今回は新自由主義の闇と経済犯罪について。

AIJ事件の問題というのは、出資者から集めたお金を勝手に使い込んで、多額の損失を出したのに、責任を取ることができない、弁済できない、というものです。

AIJが詐欺的な資金運用によって、顧客に損失を与えたので、責任はAIJにある、AIJが返すお金がないなら残念でしたね、と言ってしまえば簡単です。
いわゆる自己責任論です。
しかし、そう単純ではないのです。

それは何かというと、あまりにも多額の損失が発生すると、その会社に預けていた顧客のリスクが大きすぎて、連鎖的に顧客が破産しかねないからです。

AIJは投資顧問会社で、企業年金の運営を任されていました。
企業というのは定年まで勤めると退職金を出します。
この金額が結構大きいので、何人も一度に退職者を出すと大金となります。
大金がいきなり動くと経営に悪影響を及ぼすことがあり危険です。

そのため、退職者に支払う年金は余裕をもって積立をしておきます。
積立といってもただ銀行に預けておくだけでは、物価上昇の影響があったりして目減りします。
金利も低くもったいないので、まとめて投資顧問会社に預けるわけです。

投資顧問会社は預かったお金を安全に運用し、できることなら増やします。
銀行の金利が非常に安いので、1%でも増えればお得なわけです。
AIJはなんと5.5%の利率を約束して人気を博していたようです。

投資顧問会社は所詮は人様のお金なので、預かったお金でギャンブルをするわけには行きません。
安全に運用して、できるなら多く増やして返してあげることが期待されています。

ところがAIJはギャンブル的な運用で多額の損失を出してしまったのです。
いずれは取り返せると考えてさらに深みにハマり、知っての通り表面化したのです。
AIJの経営陣が顧客に事実とは異なる説明をして騙していたので経済犯罪です。
問題は浅川社長とその側近たちの責任範囲です。

トップの指示により詐欺行為が行われていたわけですが、詐欺行為による責任は誰にどこまであるのか? というのが問題なのです。
責任には有限責任と無限責任があります。
有限責任というのは、責任が限られているということです。

例えば、ある会社の株を買ったとします。その会社が損失を出して倒産をしたとします。会社経営陣は損失を補填しなければならない責任がありますが、株主にはそれがありません。有限責任なのです。

その逆に無限責任というのは、責任が責務を果たすまで無限について回ります。
例えば、会社の債務を会社財産では弁済しきれない場合、破産宣告をしない限りは、社員が個人的財産を投じてもその債務の弁済をしなければなりません。

もちろんAIJ事件は損失の補填を会社および経営者がしなければならない無限責任なのですが、その損失額が1092億円となると、まあ無理です。
巨額の報酬を受け取っていたとされていますが、個人資産でとても賄いきれないでしょう。

詐欺罪のほか背任罪も適用されると思いますが、刑のバランスがおかしいのです。
例えば刑期が20年であっても、それで1000億円稼げるなら安いものでしょう。
アメリカでは経済犯罪は重く、懲役が200年になったりすることもあります。
しかし、日本では無限責任とはいいながら懲罰が軽いのです。

つまり、どうやったって多額の損失は顧客には戻らないのです。
経営者が逮捕されても、ないものはないので返せないのです。
経済犯罪が大きく取りざたされているのはここです。

で、困ったのはAIJにお金を預けた顧客です。
やがて定年退職者に支払う年金がないわけですから自腹です。
中小企業では年金が1000万円程度というのが多いようですが、単純に退職者が二人いたら2000万円の支払いです。
企業にとってはいきなり2000万円の損失となります。
10人いれば1億ですから、これがどれだけ大きいか分かるかと思います。

実は企業年金問題で倒産した会社の例があります。
兵庫県のタクシー厚生年金基金の解散により、13社が連鎖倒産してしまったのです。
倒産したタクシー会社は業績不振で倒産したのではなく、負担金に耐え切れず倒産してしまったのです。

こういった例があるので、自己責任ですから、とは行かないのです。
AIJ関連で連鎖倒産が起きると大勢の失業者が発生します。
経済犯罪に対する刑罰のバランスの悪さも指摘されるでしょう。

もちろん、下手な処理をすれば国民年金問題に発展して与野党で乱闘になりかねません。

政府が恐れているのは「国民年金でも同じバンザイが起きるのではないか?」と国民に思われてしまうことです。
今、AIJ問題では公金を注入するかどうかで揺れています。

話は少し変わって、ではどうしてこのような経済犯罪が起きてしまうのか?

それは新自由主義に関係があります。
自由主義(リベラリズム)というのは、国によって意味が異なるのですが、一般的には社会的平等を意味します。
社会的平等といっても色々とあるのですが、基本的には誰でも自助努力において無限の可能性を秘めていますよ、ということです。

例えば、日本の総理大臣になる人は、ある特権階級でなければならないというわけではなく、誰でも努力によっては成れる可能性があります。
逆に言えば、こういった可能性がなかった時代もあったということです。
士農工商といった身分制度や、貴族政治など、誰でも自由に社会に参加できるわけではなかった時代と比較しての自由ということです。

自由主義というと今を生きる我々にとっては当たり前過ぎて、いまさらな感じがします。
戦後、自由主義がごくあたり前の身近なものになると、新自由主義(ネオリベラリズム)という考え方が登場します。
これは、自由主義がごく当たり前になり過ぎて、不自由だった時代を知る人がいなくなった人が、自由をさらに拡大解釈したものです。

例えば、90年代以降はネットが普及し、少子化も進み、個人主義が急速に進みます。
人との関わりを持たなくても、ネットで買い物をしたり、知識を得たり、無料で遊ぶこともできるようになりました。
個人が周りと妥協しなくても個性を発揮できる時代になったのです。
出会いも別れもメールで済ませることができ、しつこさは悪とみなされます。

自由主義が社会全体のための自由と平等だったのに対し、新自由主義というのは個人が個人の幸せを最大限発揮し授受できるのが当たり前だという考え方です。
要するに「オレ様主義」です。

アニメでも主人公が社会を乱す巨悪と戦うストーリーから、エヴァンゲリオンのような主人公が個人的な理由で戦い、僕が世界を救う「ボクセカ系」が流行っています。

では、個人の自由を最大化するとどうなるか?
他者の自由が最小化する可能性があります。

例えば、ひとつの椅子に座りたい人が二人いる場合、どちらかが座れば、どちらかが座れません。
自由を最大化するということは、椅子の譲り合いや交代をしない、ということです。
新自由主義が蔓延すると、福祉や公平の概念を徹底的に嫌う風潮が出てきます。

国家や政府による市場への介入は、個人的自由を阻害することから、個人の自由を制限するものと考えられ、介入を徹底的に嫌います。
新自由主義が最初に敵対するのはしつけを強要する親で、その次が能力を査定する先生ということになります。

新自由主義が行き着く先というのは、自由か? 死か? です。
個人が個人の自由を最大化して行くと、必ずどこかで誰かの自由とバッティングします。 自由を得るために、誰かの自由を侵さなければならないことから、自由と平等は両立しないことになります。
最大自由と最大不幸はほぼ同義語なのです。
泣きながら笑うようなものです。

では行き過ぎた自由主義を否定し、平等を尊重し我慢強く生きることは可能かというと、それは難しいのです。
最大自由を獲得するのも難しいですが、最大平等を目指すこともまた難しいのです。
なぜなら人には生まれながらにして個性が備わっているからです。
この個性は生物多様性という基本的な戦略であるため失くすことはできないのです。

自分が他人と自由を争わなくても、他者が競争を仕掛けてきます。
国民が争うことを止めても、他国が争いを仕掛けてきます。
むしろ、こういった競争が資本主義における市場原理を突き動かしている要因となっているため、やめるわけには行かないのです。
比較し、差別し、競争をしなければ中々、ヒト、モノ、カネは動いてくれないわけです。

話は経済犯罪の話に戻ります。
新自由主義の怖いところは、与えられた自由に対して、とるべき責任の重さが必ずしも比例しないことです。

例えば、ある人間の判断で100億円を動かせるとします。
しかし、お金を動かせることと稼ぎだすことは別次元の問題なのです。
100億円を動かす権利と、100億円の損失が出た時に責任が負えるかというのは別問題なのです。非常にバランスが悪いのです。

自分が責任を果たせる・負える範囲内での権利・権限を保有というのなら分かりますが、明らかに権利の方が大きいのです。
例えば、殺人という行為は犯罪であり、罪になります。

しかし、罪=殺人の自由でもあるのです。
これでバランスをとっているのです。殺人は大抵は重罪ですから、そのリスクを考えれば殺人を行うという動機は抑えられるだろう、という安易な期待があります。
性善説や推定無罪という考え方が根底にあるかと思います。

とはいえ、罪を償ったからといって殺した人が生き返るわけではないので、フェアではありません。
例えば、極端な例として10人を一度に殺したとします。
後に死刑になったとします。10人殺しておいて、たった一人が死刑になっておしまいというのは、バランスが悪いのです。
もちろん、犯人が死刑になったからといって、10人の死者が生き返るわけでもなく、残された人々は悲しいだけです。等価交換にはならないのです。

そして、なにより罪を犯した側(責任を取る側)の責任範囲というのは有限責任なのです。
つまり、ある犯人が殺人を犯したら、罰せられるのはその犯人であり、その犯人周辺の人々や環境ではないということです。

例えば、犯人がある作家に影響されて犯行を思い立ったとしても、その作家が捕まることはありません。
当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、この考えが普遍的なのは新自由主義によるものです。犯人はあの人で、私は基本的に観てただけ、というスタンスが通用します。

自由主義以前は一族郎党総処刑といういわゆる「関係者皆殺し」というのが普通にあったのです。
それぐらいしないと、責任と権利のバランスが取れなかったのかもしれません。

経済犯罪の場合は殺人よりもある意味タチが悪いと言えます。
殺人は人を一人殺すにも大変な苦労を強いられると思いますが、経済犯罪の場合は端末をいじればあっという間だからです。
企業年金で損失を出し、支払うべき人に支払えず会社が倒産し、多くの失業者が出れば結果的に多くの人が早死するという点では、間接的な大量殺人とも言えます。

そして、犯罪が発覚しても責任範囲は有限責任なので、代表者とその取り巻き数人が捕まるだけです。
もちろん弁済能力がなければお金は返ってきませんし、懲役を言い渡されるにしてもそれは税金です。

AIJ事件が注目されているのは、顧客から預かった大金をある一人の人間が消失させてしまった、ということもあるのですが、同じことが国家単位で起こり得る、ということを示唆しているからです。

例えば国民年金が破綻したとしてもその責任が及ぶ範囲はわずかだということです。
数人の政治家と官僚が非難されるかもしれませんが、それ以上でもそれ以下でもないのです。
有限責任なので、捕まって懲役を食らうこともないはずです。
そもそも国民投票で選ばれた政治家と政党なので、無限責任になると国民全員に責任が及んでしまうからです。

つまり、非常に重要なマニュフェストであっても、たった数人が「ごめんなさい」をするだけで約束を反故にできる可能性がある、ということです。
新自由主義には自由行使力にレバレッジ(てこの原理)が働いているため、それを行使する側が取られる責任以上の力を行使できる、という欠陥があります。
世の中に、ひとつも罪を犯したことがない人が誰もいないように、それらを純粋に非難することは難しいのです。

新自由主義によって個人の権利が拡大していくと、全ては「自己責任」ということになります。
この場合の自己責任は、自分が責任を取られる範囲でという意味ではなく、「自分が責任を取らされるまで」という意味です。

責任よりも得られる利益の方が大きいのであれば、必然的に

・見つからなければいいや
・ごまかせればいいや
・怒られなければいいや
・逃げられればいいや
・捕まらなければいいや
・罪を問われても裁判で勝てばいいや
・捕まっても得ならいいや

という費用対効果を意識するようになります。

この考えが、個人にも、ビジネスにも、政治にも色濃く現れてくるはずです。
注意深く見守る必要があります。

関連記事