グローバリゼーションとあいさつ病 後編

我々は日々の生活の中で、グローバリゼーションをあまり意識していないかもしれない。しかし、かなり毒されている。
例えば、「あいさつ」について考えてみよう。

とあるスーパーに行き、店員があなたに「あいさつ」をしなかったとする。スーパーでなくてもホテルでもスポーツジムでもなんでも構わない。
そんな時、あなたは「あいさつ」をしなかった店員に対してどう思うだろうか?

グローバリゼーションの病に罹っている人は、きっと腹が立つはずである。
お客様に対して「なんだその態度は!」と思うかもしれない。
「あいさつ」は店側が一方的にするものだと思うかもしれない。

なぜならば、「あいさつ」をするということは、一般的に社会の常識だと思われているからだ。しかし、これはとんだ間違いである。
直感に反すると思うが、あいさつがないことで腹を立てるのはグローバル社会の弊害なのだ。

考えてみて欲しい。
「あいさつ」をするということが社会の常識である、とするならば、社会人の常識というレイヤーと店側の方針というレイヤーを比較してみればいい。おかしなことに気が付く。

「あいさつ」をするしないの方針というのは、店側で自由に決めることが出来る。
店側の方針というレイヤーは、社会の常識のレイヤーよりも下にある。
意味分かるだろうか?

つまり、とあるA店の方針の下に、社会の常識があることは絶対有り得ない。
例えば、マクドナルドの方針の下に社会の常識があったら、社会はマクドナルド中心に回っていることになる。

当然、単価の低い客には「ご一緒にポテトでもいかがですか?」と勧誘しなければならない。そんなデタラメがあるわけがない。
一般的には社会の常識という大きな概念があって、さらにその下に各家庭や職場のマナーや方針というものが存在しているのだ。

ということは、「あいさつ」をしなかったということが、社会の常識から外れているのだとすれば、店側の方針というのは無関係である。どうしてかというと、社会の常識という観点からは店側も客側もないからだ。平等である。

これは前述したように、社会人の常識というレイヤーと店側の方針というレイヤーを比較してみればいい。前者の方が上にあるはずだ。

つまり、「あいさつ」をされたいと思ったのならば、待っているのではなく自分からもするべきなのである。
店員が挨拶をしても自分がそれに応えなければ、当然のことながら社会の常識から外れていると言える。

しかし、多くの人は社会の常識という観点と、店側の方針と、自分の要求という観点をごちゃ混ぜにしている。
だから、「あいさつ」を一方的に求めておいて、なおかつそれが実現しても自分からは決して「あいさつ」しようとはしない矛盾が生じてしまう。

社会一般常識というグローバルな考えと、自分個人というローカルな考えを使い分けられていないわけだ。
スーパーなんかに行くとお客様のクレーム中で、「あいさつがなかった」というのが結構あると思う。

そういう自分は、店員に社会の常識として自分から気持ちの良い挨拶をしたことがあるのだろうか?
一方通行的に他者に挨拶だけを求めていないだろうか?
これはあいさつ病である。

現代では、グローバルな社会一般的常識と行動と、ローカルな自分個人の欲求と行動とを使い分けるよう強制されている。自分の欲求や考えはさておき、グローバルな社会一般的常識と行動を求められている。
当然、そこには矛盾が生じる。

社会一般的常識としてより良いと思われる行動でも、個人としては実は不利益で不満ということが多々ある。
あいさつやゴミの分別などはその典型だと思う。我々は全体の利益のために個人の利益を破棄するよう求められることが多くなった。

例えば、あいさつというのはそもそも何のためにするかを考えてみるといい。
そもそも「あいさつ」というのは、儀礼行為であって、他者と他者が「これからもよろしく」という気持ちを伝え合うものだ。

つまり、「よろしく」できないのに挨拶をするのは使い方が間違っていると言える。
お店に入ると「いらっしゃいませ」と店員が挨拶する。

しかし、店員個人としてはこの挨拶を通して、お客と「よろしく」やりたいかどうかは分からない。
レジの精算のためによろしくやりたい人間が多いとは思えない。
お客にしてみれば、挨拶されても基本的に他人であるわけだから、そう易々と挨拶を返して仲良くしようとは思わない。売り込み側に対して、あまりに仲良くなり過ぎると、客として駆け引きが難しくなるからだ。

店側にしてみれば、とりあえず挨拶によって形だけでもフレンドリーシップを発揮することで、客側の満足度を少しでも引き出せるのではないかという下心があるのかもしれない。
挨拶をしたことで、既に知り合いなのだから、あなたは我々に無茶な要求はしませんよね? という牽制かもしれない。

多分、どこかの店がはじめた習慣のなのだと思う。
売主側と買主側が、まだ十分に親しくも無いのに、あたかも親しいかのような態度を取る、というサービスはどの店にいっても商品とサービスの品揃えと質が約束されている金太郎飴みたいなフランチャイズチェーンから広まったのかもしれない。
そして、我々はそれが今や正しい常識として理解している。

グローバリゼーションの怖い所は、結果が同じならばよりスマートな方が常に選択されることだ。
誰かの成功例が理論的に最適だと実証されれば、それが絶対優位になる。国や宗教を超えて、一色に染まってしまう。それ以外は間違いであり、劣位であるとみなされる。要するに失敗を一切認めず、許さない社会であるということだ。

全体として失敗を一切認めず、許さない社会というのは、失敗がないのだから、全体としては合理的かもしれない。しかし、いざ自分がやる立場になれば、ハードルの高さに困惑することになるだろう。

結果的に身の程を知らずに求め過ぎると、自分の首を絞めかねないということだ。全体というのは個人の集合なのだから。

例えば、陪審員制度は、導入前より導入後の方が長期化、厳罰化する傾向にある。

ではどうして、このような偏ったグローバリゼーションに対して誰も不満を言い出さないのか?
それはなぜかというと、なんだかんだ言ってもビジネスになるからである。

今のところグローバリゼーションが主になされているのは情報分野である。
情報というのは知識でもあるのだけれど、情報は規格化、統一化されても、それを支える体というのは不揃いなのだ。中身は一緒でも、入れ物というか器が異なる。

例えば、カリスマモデルがいたとする。この人物の顔やスタイルが美意識である、という情報がグローバル化されると、それに対応できない人はどうするかというと、入れ物である顔をメイクや整形で統一化する。
いわゆるコンプレックスというやつである。

グローバリゼーションが浸透すると、コンプレックス克服との戦いになる。
コンプレックス産業というのは儲かるのだ。

CO2削減と温暖化防止というのは国単位でのコンプレックス克服である。
CO2削減と温暖化防止という大義名分は、家電や産業の新たな指針となる。
トヨタのプリウスがヒットしたようにコンプレックスは儲かるのだ。

なにが言いたいかというと、地球規模でグローバリゼーションというウイルスと病を作り出す一方で、それらを解決するワクチンを使って儲けようとする人たちがいる、ということだ。

それはあまりにも壮大なスケールで誰もが罠だと気がつけない。

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