ED日本

この間のバンクーバー冬季五輪における浅田真央対キム・ヨナの疑惑のジャッジについては、日本と韓国のお国柄の違いが色濃く出た。
韓国はキム・ヨナに対して一致団結して応援した。金メダルを獲ったこともあり好評価である。

ところが日本では、銀メダルを獲った浅田真央にみなが好意的かというと、必ずしもそうではない。
面白いのは、負けた理由の分析。他人事のように分析をする。

同情したり、しなかったり、批判的だったり、好意的だったりと自分の考え方を世論と比較して、平均化するように調整する人が多いのではないかと思う。
韓国人はキム・ヨナが良い成績を残せなかったとしても、選手に同情し批判などしないだろう。なにがなんでも彼女は最高の選手だと褒め称えると思う。

日本人は中立が好きなようである。

そう思ったのは、浅田真央の報道のされ方と、それに対するネットユーザーの反応である。
ネットユーザーの反応が、真に日本人全体を代表しているかというと疑問なのだが、同じ韓国のネットユーザーと比較とすると、とにかく違うことが分かる。

ネットは匿名なのだから、自分の身分や立場を深く考えずに本音が言える。だから、ある意味正直な意見が多いのではないかと思う。
日本のネットユーザーの意見は、金メダルを獲ったキム・ヨナに批判的でありながらも、ちゃんと技術的な点は評価し、浅田真央も応援しつつも、彼女の不甲斐なさについても議論している。

なにが言いたいかというと、日本のネットユーザーを俯瞰すると一貫性がないのだ。まるで一貫性がないことが一貫性のように、意見は平らに調整されて行く。
もちろんユーザーひとりひとりの意見はあるのだろうが、意見の流れを読んで足りない情報を補ったり、まだ議論されていない話題を探して、そこにメスを入れているような気がする。

悪く言うと人の粗探しがうまいと思う。
褒めていれば悪いところを探し、悪く言えば良い所を探す。
全指向性なのだ。
韓国のように世論がひとつに傾くことはなく、分裂気質(パラノイヤ)で自己同一性がない気がする。

明確に自分のスタンスを打ち出して主張をする、という傾向があまり見られない。
一人の人間が、一つのニュースに対して、多角的な視野を持ち、多角的に語るようになったのではないかと思う。
「俺は日本人だから、なにがなんでも日本人を応援する」
という粘着気質の分かりやすい昔ながらの日本人は少なくなった気がする。
熱血、猛烈、頑固なんて無縁だ。

試しに日本のなにかよく知られたニュースについて意見を求めてみるといい。
意見を2つ以上言ってくれるのではないだろうか?
世間一般的な結論と、「しかし、もしかしてこのような事情があって止むを得ずに、そのようになってしまったのではないか?」という多角的な意見を述べてくれる人が多いのではないだろうか?

物事が一面性だけであることは少なく、必ず二面性を持っている、と知っている人が増えた気がする。
わざと意見の偏重を避けて、主張にブレというか揺らぎを作っている気がする。

主張があまりに一貫していると、ネットでは「おいおい、こういう意見を忘れてないか?」というちゃちゃが入る。

逆に言えば、一つの意見だけに統一された、例えば宗教的な考えや情報は怪しい、と疑う人が増えた。
(とはいえ、持っている知識を点検し、それが正しいかどうかを疑うまでには至っていない)

もしそうだとするなら、これはいつからなのか?
一昔前の日本人気質には見られなかったのではないだろうか?
今や一億玉砕を覚悟して突き進んでいた頃とは違う。

昭和の時代には、こんな傾向(全指向性)は既にあったのだろうか?
私の記憶ではなかった気がする。

一部の先進的な人、たとえば文筆家や学者先生は多角的な考え方をしていたとは思うが、今や個人が精度は低いが物事を多角的に分析するようになった。

インターネットのお陰で世界は狭くなり、国際情報は容易に入手できるようになった。
しかし、韓国や中国は高度な技術を有しても、相変わらず単一的な物の考え方しかしない。
つまり、日本人があーでもないこーでもないと色々考えるようになった背景には、国際化やネットはあまり関係ないのかもしれない。

むしろ、災害大国である日本は、定期的に災害に見舞われるたびに、盛者必衰だとか統一原理は大災害の前には役に立たないと学習したのかもしれない。
どんなに文明が進んでも、地表の薄皮の上に立てられた砂上の楼閣に違いない。
「所詮人間なんて…」という一種の諦めと、「なに元農民がカッコつけてんだ」という嫉妬とニヒリズム。

昔ながらの日本人の日本人らしさは、今や日本人の笑いの種でしかない。
大日本人から小日本人へとコンパクトになっている。
日本人は萎縮している。
言ってみればED日本ってことだ。

関連記事