衆愚のクラウド化

最近注目されている技術にクラウドとかクラウディングという言葉があります。
クラウドコンピュータという言葉を聞いたことがある人もいると思います。

クラウドというのは簡単に説明すると、ユーザー(使用者)側は最低限の端末(キーボードやマウス、モニタ、通信回線など)を持つだけで、あとはネットから調達してしまう概念のことです。クラウドとは「雲」から来ています。
このクラウド化のメリットは、例えばパソコンのソフトをサーバーというコンピュータに入れておくだけで、複数台のPCから共有できたりします。

例えば、ホームページは1つのデータを複数のPCから見ることができますが、この時閲覧するPCの数だけホームページのデータが必要かというと、そうではなくて1つで事足りるわけです。

例えば、有料のソフトウェアを1本だけ買って、家族で共有することができたら便利ですよね? 大抵の場合はライセンスの都合で1本につき1台しか使用できませんが、ネットで繋がって入れば1本のソフトウェアを共有することが可能になります。

PC同士が繋がっていると、ソフトがネット上にあれば、あとは都度ネットワークを通じて必要な時に必要なだけ使用することができます。
この考えを推し進めると、自分の手元にはキーボードとモニタのような入力端末だけがあれば良いことになります。
足りないものはなんでもネットから調達すればいいからです。

とはいえその場にないデータをネットでやりとりするので、通信回線の速度がネックになっていることもあり、完全なるクラウド化というのはまだ先の話になると思います。
メーカーはライセンスの問題もあり、1本買ったらみんながタダということにはならないと思います。

ただこの先通信回線の高速化によって、ネット上にあるデータをあたかも自分のPC上にあるかのように処理できる時代が来るはずなので、クラウド化は益々加速すると考えられます。

ここまでがクラウド化の前振りです。
実際に述べたいことはコンピュータのクラウド化ではなく、衆愚のクラウド化です。
衆愚のクラウド化というのは便宜上勝手に命名したものなので、通称ではありません。

しかし、最近では衆愚のクラウド化と思えるような事例がたくさん出てきています。
衆愚のクラウド化というのは非常にポストモダンな概念で、これまで過去にこのような概念があったかどうかは不明ですが、説明するとこんな感じです。

例えば、3.11の東日本大震災以降、原発が制御不能に陥った東京電力に対して非難が殺到している。非難をする側と非難をされる側。この両者の関係というのは基本的に因果関係のはずだ。

因果関係というのは、例えばボールを落としたら弾んだ、というような関係で逆説的にボールが弾んでいるのはボールを落としたからだという関係が立証できる。A=BはB=Aなのだ。

つまり、東電を非難する側というのは、東電によって直接的に被害を被った住人及び関係者でなければならない。にも拘わらず多くの人があたかも、あるいは被害者以上に東電を非難している。

ここに疑問を持つかどうかが衆愚のクラウド化のポイントなのだ。
多分、多くの人が義援金が届かないとか、収束しない原発に対してイラ立ち直接的被害は無いけれど非難をしていると思う。

つまり関係としてはA=Bという因果関係ではなくてA≒BやA⊂Xのような相関関係となっているのだ。
相関関係というのは直接関係はないけれど、間接的には関係するということで、例えば犯罪者のうち99.99%の人が水を飲んでいる。水を飲んでいる人は犯罪者になる確率は99.99%と高い、というようなものも相関関係になる。

マスコミを筆頭に日本の多くの人が、因果関係と相関関係を取り違えていると思う。日本の大きな問題は確かに日本人一個人に対してなにかしら関係してくるけれど、相関的には人それぞれレベルがあるはずだ。

直接ではないけれど、物凄く関係が深い人もいれば、さほど関係はない人もいる。

この時、相関度に応じて非難をするという人は少ないと思う。

あたかも自分のことのように想い非難をする。
事態が事態なだけに自己と他者を混同するような事例が多発しているのではないかと思う。

よくあるのは「その人の身になって考えてみなさい」というもの。
その人の身になって考える、というのは少々無理があると思う。
その人という当事者ではない事実を否定し、あたかも自分が当事者であるかのように考え振舞うことを肯定する、ということだ。

簡単に言えば、当事者ではないけれど当事者と同じ気持ちになりなさい、ということだ。AさんではないけれどAさんに成りなさい、ということでもある。

これだけを見れば共感という言葉で片付けられると思うのだが、その一方で非当事者意識は強かったりする。共感を強要しつつも差別は野放しなのだ。

例えば、福島産の野菜が風評被害で売れないという問題があった。
放射能に汚染されたものならまだしも、汚染されていない地域の野菜までもが福島産だからといって売れないということが起きている。

福島県で原発事故が起きて、一部地域では放射能汚染が確認されたのは確かで、これは因果関係がある。
しかし、福島県または近隣県に汚染の可能性がある、というのは相関関係であって名前から連想して全てが危険という画一的な問題ではないよね。

風評も不買も元を正せば消費者側の選択だよね。
一方で風評被害を非難して、一方で不買をする。
不思議と消費者が消費者を非難する、ということはなくて、なぜか矛先は政府や東電に向けられるばかりなのだ。

上記はあくまでも一例だ。
何が言いたいかというと、非当事者の当事者成りすまし詐欺が多発しているということだ。

例えば、ネットで不用意なことを書くとブログやツイッターが炎上する、という事件が多発しているけれど、その炎上に加担している人達の多くは非当事者のはずだ。相関関係はあるかもしれないけれど、因果関係がない人達で、当事者ではないのにあたかも当事者であるかのような振舞いは差し出がましいを通り越して狂気じみている。

例えば、ニュースである人物が事件を起こしたとする。すると、その人に関連するトピックスが付随する。「元人気グループの○○」とか「元野球選手の○○」だとか果ては「○○さんとライバル関係にあった」という事件とは直接関係のない情報が付いて回ることがある。

因果関係はないけれど相関関係のある情報を付随させることで、それがあたかも関係しているかのように誘導しているように思える。

非当事者の当事者成りすまし詐欺である。

代弁をするのはいいが、「なに目線」なのかがよく分からない。

なぜならその代弁者は当事者ではないのだから。
当事者との無関係という関係がその関係性というややこしい構造なのだ。
関係性の追及は、それを追及する者と関係しない次数まで及ぶ。

例えば、「元○○の○○さん」という関係の追及は、元○○だけに留めずさらに追求が可能なはずだ。親や兄弟、子供、親戚・縁者から友達まで関係なんていうのはいくらでも増やせるよね。
だって相関関係を並べていくだけなのだから、その日の天気や気温を含めたっていいはずだ。ありとあらゆる要素を含むことができる。

しかし、論理的に相関関係だけで見積って行くと、全ては繋がっている以上、必ず自分にも追求が及ぶことになる。
原発事故の問題だって、元を正せばそれが必要だと思う人達がいて、賛成多数で可決したから起きたのであって、なにかしらの原因を追究していけば、日本人全員の責任、ひいては世界人類全ての責任となってしまう。

故に関係性の追及が追求者に及ばない範囲で行われる。
「元○○の○○さん」はいいけれど「元○○の○○さんとそれを紹介した私」という関係性は避けられる。

なぜなら関係の追及が自己にも及ぶからだ。

(関係の問題を追及する時、追及者は一歩引いて無関係でなければ成立しない。
事前も事後も係わらない完全なる無敵な状態でなければ代弁は失敗に終わってしまうからだ)

しかし、それを紹介し広めたという事実は非常に大きな意味を持つ。
多くの無関係だった人をあたかも関係付ける行為だからだ。
人々にとって紹介し広める人がいなければ知り得ない情報だったかもしれない。情報発信者の存在というのは小さくは無い。

しかし、代弁者というのはいつも不在の中で行われる。
なぜなら究極的には代弁者というのは、当事者ではなく無関係だからだ。
真に当事者であるならば、完全事実である以上、代弁する必要すらないはずなのだ。

もし代弁者に「あんたも無関係だろう」と言えば、きっとこう言う。

「あなただって○○○の気持ちになって考えてみれば分かるはずです」と。

当事者との無関係という関係がその関係性というややこしい構造は、非当事者の当事者成りすまし詐欺を生むことになる。

無関係なのに「あたかも○○○の気持ちになって考える」ということに仮に成功したら、それはもう無関係な他者ではなく関係のある当事者ということになる。

そんなソフトウェアのインストールみたいなことがパパッと出来てしまうのか疑問なのだが、どうやらさらっと出来てしまう人がいるようだ。
それも多数。

ネットの炎上は非当事者の当事者化によって起こると仮定すれば、みんなの言い分は、「紛れの無い本音」なのだと思う。

(ただし、自己に責任が追求されない範囲で)
奇妙なことだけれど…。

最近よく言われることに「なに目線だよ!」という言葉があるけれど、これは複眼視を意味しているのだと思う。
目線とは自分の立ち位置で変わる。自分の立ち位置が曖昧な人は(よく言えば柔軟な人)はころころと変わる。

前提がないから議論をする度に一般論を述べたかと思うと、自分の人生で経験した個人的な経験論や感情論をミックスしてくる。
お話にならない。

自分の立ち位置が変わると人間関係というポジションも変わる。
考え方の前提や捉え方にも当然変化が生じる。
パラノイヤと言うか、自分は自分であって自分ではない、という分裂傾向が見られる。

「○○○とは言ってはいない」という否定表現が多用されるようになったけれど、言葉として言い表さなければ因果関係は生じないという自己責任回避の分裂気質も特徴だ。

非当事者の当事者化はクラウド化の概念に似ている。
ひとつのリソース(資源)を遠隔で共有することで、あたかも自分のものとして操作できる。自分の手元に無いものを仮想的に操作することができる。
手元にないからいくらでも詰め込めるわけだ。

ネット化が進むと共有できる情報というのは増え、近接度が増す。
文章だけだった時代から、動画配信、ライブ中継までできると近接度は高まる。
あたかも手元にはないけれど、手元にあるような感覚に近くなる。

しかし、やはりそもそもそれは手元にはないし、どこまでいっても当事者ではない。だからこそ「あんたは無関係だろう」という意見と「あなただって○○○の気持ちになって考えてみれば分かるはずです」という意見の対立が起きる。

どちらも無関係という関係がその関係性というややこしい構造の中にある。
こんなややこしい構造を昔の人は持っていたのだろうか?

なんにせよ手元にはない情報は二次情報だよね。一次情報というのは本人という当事者しか知らないから、係わりを持ち始めるとなにかしらの当事者成りすましを経なければならなくなる。
当事者は当事者だけに誤解がなければ自己を代弁する必要はない。

騒ぐのはいつも外野だ。
日記で不謹慎なことを書くとコメント欄が騒がしくなるのは、衆愚のクラウド化なんじゃないかと思う。

【引用元 goo イメージサムネイル】

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