長岡式:084【ニワトリに金の卵を産ませるには?】

ニワトリに金の卵を産ませるには、
ヒヨコの頃から、金ばかり食べさせること。
それが最短距離である。

ニワトリが金の卵を産んだ、という言葉がある。これはイソップ童話の「金のタマゴを産むニワトリ」の話が元になっていると思う。

こんな話だ。

あるところに、一羽のニワトリを飼っている貧しい男がいました。
ある日の事、このニワトリが金のタマゴを一つ産みました。
男はビックリして、叫びました。

「これはすごい! 高く売れるぞ!」

ニワトリは次の日も、金のタマゴを産みました。
また次の日も、また次の日も、毎日一つずつの金のタマゴを産みました。
お陰で貧しかった男は新しい家に住み、おいしい物を食べ、きれいな服を着る事が出来ました。

「おれもずいぶんお金持ちになった。でも、おれよりも大きい家に住み、おれよりも高い服を着ている奴は大勢いる。ニワトリがもっとたくさんのタマゴを産んでくれればいいのだが。む・・・まてよ。あのニワトリの腹の中には、金の固まりがあるに違いない。そうだ、それを取り出せば、おれはもっと金持ちになれるぞ」

男はそう思って、すぐにニワトリのお腹を切り開きました。
でも、金の固まりなど出てきません。
ニワトリは死んでしまい。男はすぐにお金がなくなって、また貧乏になってしまいました。

金の卵というのは、思いもよらないモノやヒトが、思いもよらない価値を持つ、という意味として使われる。
直感に反すると思うけれど、金の卵を産むニワトリというのは、もちろん金のニワトリなんだよね。

だから、金の卵には価値はあるけれど、真に価値があるのは、それを産むニワトリだということ。
殺してしまえば、元も子もない。

このイソップ童話の教訓は、欲張るのはほどほどにして、今、自分が持っている物で満足しないと、今持っている物も失う事になる事を教えている。
では、長岡式でも「欲張るのはほどほどにして、今、自分が持っている物で満足しよう」ということを言いたいのかと言うと、ちょっと違う。

金の卵を産むニワトリもまた金のニワトリであるのならば、金の卵が欲しければ、それを産ませたい人自身も金のヒトでなければならない、ということだ。
その価値を形作るのは、その人の価値感なのである。

イソップ童話の貧しい男というのは、ただ単に貧しかったのではなく、この男の頭の中身こそ貧しかったんだよね。頭の中が貧乏だと、要するに貧乏になる。とても単純だ。
なぜなら、せっかくのチャンスを活かすことができないから。

恵まれない人、不遇を嘆く人というのは、運が悪いんじゃなくて、そもそも頭の中が恵まれていないし、不遇を了解している人なんだと思う。

では、どうすれば金のヒトを作れるのかと言うと、金の親や金のマスター(師匠)らによる教育によって作られるのだと思う。
「しかし、生まれつき金の親や金のマスターが傍にいないけれど、それはどうなのか?」と言う人がいると思うけれど、それこそが頭が不憫な証拠で、必要であれば自分から会いに行けばいいだけなのだ。

もしその人に会えなくても、現代であればその人の思考の痕跡は残っているかもしれない。

例えば、書籍などである。

金の親やマスターがいなくても、金のエサぐらいは食べることが出来るわけだ。
それをしない時点で、価値の無い人なのだと思う。
価値の無いものはからは、やはり価値のないものが生まれる。
価値の無いものを価値たらしめるのは、価値を見出せる価値感であって、それは偶然降って沸いて出てくるものでもないし、ニワトリが突然産むものではない。

【引用元 goo

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