長岡式:079【仏なら二度殴ってもよい】

仏の顔も三度まで、という言葉がある。
つまり、仏さんの顔は、2回までならセーフ。
失敗も二度ぐらいなら許してくれる。
このシステムを活用していない人は随分と多い。
恐れるな。

失敗はできることなら多くしておいたほうがいい。
失敗というのは、正解ではないが別のうまく行くやり方なんだよね。
ということは、失敗を多くすることができる分だけ、正解へ近付いていくことができるというわけだ。

例えば、選択肢が3つあったとする。正解は3つのうちのどれかだったとしよう。ということは、間違いは2つ。
回答者は選択肢から情報は得られないとする。

この時、選択権が3回あれば正解率は100%となる。
選択権が1回であれば、三分の一なので単純に33%だ。
2回失敗することが許されていれば、自ずと答えが見えてくることになる。

これを別の見方をすると、正解率の高さは失敗回数に比例することになる。
なぜなら、その選択肢が失敗だと分かれば、選択肢は減り、選択肢の範囲は狭まるからだ。

「仏の顔も三度まで」という諺があるが、これは過ちを許してもらえるのは三度までだから、同じ過ちをしてはならない、という意味として使われている。

注意して欲しいのは、「同じ過ちを繰り返すな」ということであって、実は「違う過ちは繰り返すな」というわけではないこと。
「違う過ちなら繰り返してもいい」というのが真意なんだよね。

同じ過ちとは既に選択した選択肢を再選択することで、これは文字通り意味が無い。
条件が変わらなければ結果もまた変わらないためだ。
こんな分かりきったことを三回も繰り返していたら、そりゃ仏様も怒ることだろう。

しかし、違う過ちを繰り返すことは意味がある失敗なんだよね。
前述したように、選択肢が減れば自ずと答えに近付くためだ。
言い換えれば、成功確率は試行回数に比例する、ということだ。

逆に言えば、試行回数が少なければ少ないほど成功確率も低くなる傾向にあるということを意味している。
これは人類の進化の過程としても的を得ている。
なぜ人類が多様性を持っているのかと言うと、それは全人類総失敗祭りをするためなんだよね。

失敗を許されない世界はどうなるか?
例えば免疫系が極端に弱くなってしまう。似通った遺伝子系を持つグループ内ではウイルス耐性がマンネリ化してしまい、免疫を突破するウイルスが現れた時は全滅の危機に直面することになる。

しかし、誰か一人でもウイルス耐性を持つものがいれば、生き残られる可能性は格段に高くなる。

人は同じ環境で同じようには生きてはいけない運命にあるんだよね。
異質なものと嫌でも交わらなければならない宿命にある。

大事なことは、失敗を許容してくれるシステム(制度)を有効活用することであって、失敗をしないことではないんだよね。勘違いしやすいのは、失敗は悪であり、してはならないものだという思い込みだ。

例えば、ボールペンと鉛筆があるとする。
紙に長い文章を書くに当たり、どちらの文房具がより上手く清書することができるだろうか?
もちろん鉛筆だよね。鉛筆は乱暴に書かない限りは、消しゴムというメソッドで失敗を許容してくれる。

例えば、タイムマシンが使えて、やり直しが永遠無限にできるのならば、できないことは有り得ないかもしれない。

タイムマシンがなくても、それに準じる失敗を許容してくれる方法や制度、ガイドなどを有効活用することで、随分と成功確率は高くなる。
パソコンのやり直し(Undo機能)は世紀の大発明だと言える。

しかし、我々はなぜかたった一回のチャレンジで見事成功させる、というドラマのようなサクセスストーリーに強く反応する。確かにその方がカッコイイし、リハーサルなしで成功させるのは実力がある証拠になる。

でもそれが許されるのはフィクション近いシチュエーションだけだ。

例えば、ゲームだとかお遊びの延長であればぶっつけ本番であるべきだと思うけど、生死を問う場面や、一生を左右する場面においては、なるべく失敗が許容される制度やルールを利用した方がいい。

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