長岡式:076【ブランドとは言い訳である】

ブランドとは品質ではなく言い訳である。

有名な話だけれど、ブランドは元々は自分の家畜などに焼印を押し、他者の家畜と区別するために行われたものなんだよね。
最初は単に区別するためのマーキングとしての役目がブランドだったんだけれど、今ではブランドと言えば、高級品を指すようになってしまった。

派生語として、「ブランニュー(brand-new)」と言えば、「真新しい」という意味だよね。
これは「焼印を押したて」というところから来ている。

例えば、日本では紀文食品は主力の蒲鉾やちくわに焼印を付けることで、商品の希少性、信頼性を認知させてきたという。セトモノや掛け軸には昔から意匠が施されている。

ブランドは、当初は区別することが目的だったものが、やがては差別することが目的になったと言える。
では、他者(他社)と差別化することがなぜ顧客の安心感を獲得でき、高級品と認知させるに至ったのだろうか?

それは「分けると分かる」と「分かると分ける」に秘密がある。
人間の特性として、この世界に分けられていないものには、侵略しても良いという暗黙の了解がある。

人間だけではなく、動物も植物も手付かずのものには、瞬く間に侵食がはじまる。
この世に無駄なスペースや概念などないということ。

分かりやすく説明しよう。
世界は最初たった1つからはじまる。これは概念的でもあり、実際的でもある。

例えば、世の中には様々なものがあるけれど、もし光がなければどうだろうか?
形を触れることができても、色がないということは、すべては闇であるから、区別が付かない。

光があって、はじめて色彩と陰影が感じられる。
光がなければ、分かったとしても分けられたとは言えないんだよね。
すべてが闇の中にある。

逆に光があったとしても、それが絵や写真などの平面だったらどうか?
色はわかっても、それに触れることができず形も体験できないなら、分けたられたとしても分かったとは言えない。

要するに人はなにかしらの方法で、たった1つの世界を大なり、小なり切り分けて理解しているということ。
その細かさや種類、分類方法のユニークさが、すなわちその人にとっての世界観だと言える。

その人にとっての耳の良さや色彩感覚は、その人の芸術的センスに匹敵する。
「分別のある大人」というのはそういう意味だ。
違いの分かる人と分からない人。その差分は生涯利得にすら影響してくる。

仮に他人の所有物と自分の所有物という分別の境界線がないとどうなるかというと、窃盗ということになるかもしれない。あるいは分け隔てが無い、気さくな人と思われるかもしれない。
日本に在住している中国人やロシア人は、他人のものと自分のものという区別が曖昧らしく、置いてあるものは所有者が放棄したと勘違いして(わざと)持っていってしまうらしい。

人間にとって分かれていないということは、世界と同化していることを意味する。
人権すらうまく分かれていなかった中世では、人は人の所有物とすることができた。
そのもっと昔には、国は国の属国とすることができた。
北極や南極、月や火星といった惑星は、分からないことが多過ぎて特定所有権の無い空白地帯となっている。

つまり、ブランドが押してあって区別されたものは、「分かっている」ということが言えるんだよね。
「分かっている」ということは保証の担保になる。
それはそれ。これはこれだ。

例えば、結婚という契約は、一人の心身ともに分別のある人間が、二人で一つになる契約で、「分ける」の逆操作になる。
つまり、異性が闖入してふたりの権利や仲を侵略しないように分かれている継ぎ目をなくし、スムースにする操作になる。と言っても、実際に二人が一緒になってしまったらホラーだから、気持ちと法律の上での話だよね。

「分かっている」ことが担保になると、どんなメリットがあるかと、「分からない人間」と境界を設けることができる。分からない人間と境界を設けることがなぜメリットか理解しにくいかもしれないけれど、現在のインターネットの情報技術を鑑みれば理解しやすいと思う。
「分かる」ことは絶対的なパワーを持っているんだよね。

いつでもどこでも誰でも何度でも好きな情報を得ることができるネットでは、情報は安価だ。
ネットに繋がる環境があるのとないのとでは、生活の豊かまで違う。

話は戻って、ブランドが価値ある高級品として認識されていく過程には、前提として「分かっている」センシティブな人間の活躍がある。その違いが確かな違いとして認識されれば、人々はブランドに信頼を抱くようになる。

違いが分かり、印を付けられるということは、1つの大きな世界が縮まり、人間界や人間圏が豊かになる、ということでもある。
しかし、これだけでは人々がブランドを支持する理由としては弱い。

実はブランドを支持する人というのは、そのブランドについて「分からない」からこそ支持しているんだよね。

なぜなら、そもそもブランドが違いを分け、区別する役目であったとするならば、その違いが分かる人というのは、自明の理として自らもブランドを作るはずである。
ブランドの価値が分かる人は、その違いが分かるからこそ、自らブランドを確立する。当然の流れだ。

世界は前述したように「分けるにことに成功」したら自分のものにできる。
分けられないからこそ、他人のものを借りるしかないんだよね。

直感に反すると思うけれど、なにかしら分けることに成功している人は、ブランドという差別化されたものは無用になる。なぜなら、その違いは自分にとってどこまでも同じだからである。

高級品と格安品の「違いが分からないことを分かっている」人間にとっては、ブラント品もノンブランド品も大差はない。
100均の商品で十分な人にって、同種のブランド品は不要になる。

ブランド品をありがたる人間というのは、「分かっていることを分からない」からこそ手にしたがるんだよね。
とりあえず、ブランドなら間違いがないだろう、という先入観がある。

つまりそんな人にとっては「ブランドとは言い訳」である。
ブランドさえ持っていれば、私はそのブランドと同じ価値感を持った人間である、ということを周知させることができるからだ。

売れるブランドとは、言い訳の効果が高いものを意味する。
すぐに見破られたり、見透かされる言い訳ではダメだ。
なぜそうでなければならないのか? ストーリー性があって、歴史があり、根拠があったほうがいい。

そのようなブランドは、ブランドイメージとセルフイメージを同一化してくれる。
例えば、高級品を身に付けた人というのは、世間一般的には裕福で精神的にも豊かな人、という評価を得られやすいと思う。実際どうかは分からない。

でもその可能性は高いとされている。ブランドは「ブランド品だから~」という文脈に変化する。実際問題、「ブランド品だから~」という文脈はナンセンスであることが分かる。 あくまでもブランドとはイメージであって、実際や実態を表わすとは限らないからだ。

確かに、馬子にも衣装というように、普段カジュアルな格好をしている人がフォーマルなブランドスーツを着れば、フォーマルでゴージャスな人という印象をもたれるかもしれないけれど、本人がフォーマルでゴージャスかは別問題だよね。

しかし、世間ではブランドとそれを所有する人は同一視される傾向がある。
その理由は、結局そのブランドとはなにかをよく分かっていないからではないだろうか?

分かっていないからこそ、嘘でもそのブランドを選択すれば、その間違いを指摘できないんだろうね。
間違いが指摘できないということは、ブランドとそれと紐付けされた所有者のイメージが同化したままということでもある。

かくして、ブランド=自分のステータスとして広まっているんじゃないかな。

因みに、なぜブランドというと高級品というイメージがあるのかというと、それは低級な人(世界をよく分かっていない人)ほど、ブランドを必要としているからだと思う。
「分からないからこそ分かりたい」とか「分からないことを悟られたくない」というコンプレックスがあって、短絡的にブランドを支持する結果になっているのではないかな。

そんな人にとって、やはりブランドとは自分が世界を分かっていないことへの言い訳である。
ブランドを施す者ではなく、焼印を押された家畜ようなものだと言える。

関連記事