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引き寄せの法則 番外編 ホログラフィック宇宙理論とすべての数を含む円周率 後編

ここまでの話をまとめると、宇宙には全ての数を含む円周率があるように、この世のあらゆる出来事は既に同時に存在しているのではないか? ということだ。カメラの映写フィルムのように、コマで記録されていて、コマは連続して繋がってはいるけれど撮影済みであり、同時に存在している。
これがホログラフィック宇宙理論でこの世に対するベンチマーク実験で「コマ落ち」が発生しなかった理由なのではないかと思う。

我々は物事を決めたり、起こったことの確率を求めるためによく計算を行うけれど、計算というのはあくまでも再解釈に過ぎないんだよね。
計算しようがしまいが、そこに物事は存在しているわけで、抽象的な概念を理解するために計算という手段を用いているに過ぎない。証明なんかしなくても本物は本物だし、証明を必要とするのは審美眼を持たない者の言い訳に過ぎない。

だから、あらゆる事象が既に存在していたとしても、それを読み解く順番を変えさえすれば起承転結が入れ替わるようにストーリーも変わるのだと思う。
既にあらゆる可能性が同時に存在していて、一個人にできることはそれをどの順番で解釈するか? だけなのだ。

そして、もっと大雑把に言えば、我々は死に向かって100%進んでいるわけで、生きるということは死という最終局面が今よりも手前に来ないように回避する努力を怠らない、ということなんだよね。

で、前回紹介した動画の中で人の意識が量子レベルで何かしらの影響を与えている、というのを思い出して欲しい。

これは念力というよりも、パラレルワールド=平行世界へ分岐していると考えられる。
モノが動くんではなくて、自分がパラレルワールドを移動しちゃってるわけだ。
一文字思い浮かべるだけでパラレルワールドは分岐する。
なぜ人の意識がパラレルワールドへ働きかけられるのかというのは未だ謎だけれど、脳神経ネットワークと宇宙の形が酷似していることとなんら関係があるのかもしれない。

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人の意識が量子的であるならば、その可能性(パラレルワールド)もまた無限なんだよね。

ただし、元素の周期表のように反応に差異がある。起こりやすいことは起こりやすく、起こりにくいことは起こりにくい。
量子ぐらい小さくなると量子Aと量子Bに違いはない。違いは位置関係ぐらいだ。だからほぼ交換が可能になる。
良い量子とか悪い量子というのもない。良い電気とか悪い電気というのもない。
おそらくこういったものは位置(ポテンシャル)が交換可能で「起こりやすい」んではないだろうか。

違いが位置だけであるならば、位置というのは相対的なものであるわけで、なにが相対的かというと「あなた」と相対的なんだよね。あなたのいる視点から見て位置は相対的に決まるわけで、その位置が変わるということは量子によって構成されているマクロな世界も変わるということなんだよね。
総量は一緒でも、結末から物語を読むか、最初から読むかで読書感想が異なることに似ている。

水をワインに変えることは難しいけれど、量子をちょっとズラす(自分のいる世界をズラす)ことは比較的簡単なんだろうね。
例えばリアルを変えることは難しいけれど、低レベルな文字の世界では文字列を変えるだけで概念を変えることができる。
小説が好例だろう。その小説に使われている全文字列を羅列しても意味を成さないけれど、適切な順番に並び替えることで小説は成り立つ。この時、個々の文字列は変化しているわけではないことがポイントで、ではそれを読んでなにが変わるかというと、読者の方なんだよね。物語が変わる、物語が展開しているようで、実は読者が変わっているとも言える。
言うなれば、過去(物語)は振り返った時にだけ存在するとも言える。

それで、パラレルワールドがあるかないかというのは、再現性を前提とする今の科学手法では実証が難しいと思うけど、あるとするならば、こんな考えもアリなんだよね。

例えば、ある男が100万円をあなたに差し出す可能性を考えてみる。普通に考えるとあり得ない話なんだけれど、それでも有り得るように考えてみる。
100万円をあなたが受け取るということは、相手はマイナス100万円になるわけだよね。100万円を差し出すには相当強い理由があるはずだ。ということは、単純にあなたがその男に100万1円を預けて、100万円を返してもらう、という説明を考えてみたら充分有り得る話となる。あるいはその男は消費者金融かもしれないし、保険屋かもしれない。

何が言いたいかというと、どんなにあり得ないような話でも、設定が固定化していなければ割とどうにでもなる、ということ。しかし、設定が固定化してしまうと可能性は収束する。

例えば、まったく赤の他人である男が100万円をあなたの銀行口座に入金し、まったくなんの見返りも求めない可能性というのは、前述した単に「ある男が100万円をあなたに差し出す可能性」よりも低くなる。ストーリーを考えようにもビジネスでもないし、ギャンブルでもないし、保険屋というわけでもないし、遺産相続というわけではなくなってしまう。
振込先を間違った富豪というのもアリかもしれないが、その確率は非常に低い。
ここにさらに設定が付け加えられてリアリティが増していくごとに再現性は低くなっていく。
整合性がとれなくなるからだ。

物事が引き寄せられる可能性というのは、起きやすいことは起きやすく、起こりにくいことは起こりにくいのならば、設定は甘く柔軟性がある方がいい。あらゆる物事が既に起きていて、同時に存在し、可能性が無限ならば、出来事を辿る順番こそが意思決定であり、意思決定の多さは可能性を排除していく。
決めるというのは、他に選択しなくてよいものを決めるということなのだから。

つまり、そういったことしか起こらない、という可能性だけが常に起こるような意思決定の連続は、その起こりやすさを維持し続けることに繋がるんだよね。例えば、お金が常に入ってくるという設定を細部に渡って固定化していけば、当然お金が常に入ってくることになる。その設定が破綻するまではね。
例えば、商標登録、著作権、不動産収入というのは、モノがあって契約があるわけだから、かなり細部が固定されている。
逆に借用証書や連帯保証人への連名はマイナスの効果が固定されることになる。

ここで引き寄せの法則に戻る。
よく引き寄せの法則が本当ならば私もアメリカ大統領になれるはずだ。今すぐ1億円を手にすることもできるはずだ、と悪ノリする人がいるけれど、そうならない理由というのは割と簡単だ。

○○○になりたいと願うという設定には、私は○○○ではない、だから○○○になりたい、という裏設定があるんだよね。
前述した「私もアメリカ大統領になれるはず」という願望は、引き寄せの法則=万能である=ならば最もあり得ない設定を言ってやれ、という裏設定があるはずで、設定の中で既に「最もあり得ない」と自己承認をしてしまっているんだよね。

最もあり得ないという設定を自ら認め、そして生きてきたわけだから、かなりその願望とは遠いところにいるわけで、起きやすいことは起きやすく、起こりにくいことは起こりにくいのならば、なれるわけがないし、そしてそれを自ら認めてしまっているし、そもそも引き寄せの法則を否定するための言動なのだから、直ちにそれは願望達成として現れるんだよね。
ここで重要なのは、願望達成は最短最速を好むということ。

例えば超能力を考えてみる。1Kgの鉄の塊を手を使わずに動かそうと念じたとする。
思考実験をするまでもなく、おそらくは動かないだろう。
なぜ動かないのかは明白で、物理がーというより、手を使った方が早いからだ。
超能力というのは低能力なんだよね。1Kgの鉄を動かすのにどれだけの念力が必要なのか分からないが、とにかくちょっとやそっとのことでは動かせない。

ところが手を使うとあら不思議。相当重たいものまで動かせる。超能力というのは低能力で、身体能力は超能力なんだよね。
しかし、そんなことを言うと「インチキだ」と言う人もいるかもしれないが、そもそも手というのはタンパク質であり、アミノ酸であり、脂質であり、水分であり、分子であり、原子であり、素粒子の集合でもある。

手というのは、それらが組み合わさって、奇跡的に自分の脳と繋がっているわけで、いわば自分の願望を叶えるために量子に働きかけるツールを作り上げたとも言えるし、そのヒストリーというのは生物進化を考えれば明確な仕組みがある。
疑いようがないし、意識する必要すらない。

起きやすいことは起きやすく、起こりにくいことは起こりにくい、願望達成は最短最速を好むの法則で考えれば、1Kgの鉄の塊を動かす最適な方法を知っている以上、それ以上の方法で動かすことは難しい。意識が答えを知っているから否定しちゃってるんだよね。

引き寄せの法則を知っていても使いこなせないのは、願いの裏設定によるものなんだよね。
「あり得ないという文脈」があるからこそ、そうなりたいというのが願望なのであって、もし当たり前にそうなれるのなら意識することなく漠然と「成れるんじゃない?」と思うはずなんだよね。

私は歩けるか? 歩きたいと願うか? なんてことは歩いたことがある者にとって当たり前過ぎて考えないものだ。
当たり前に実現できることっていうのは、ほとんど意識することはないんだよね。意識することというのは設定が固定化されて、今できないこと、やりたくても足りないことがほとんどなのではないだろうか。

願掛けの前に自分自身が過去を振り返り、できないという設定を固定化してしまった後では「ある男が100万円をあなたに差し出す可能性」で述べたように辻褄を合わせるのは難しいんだよね。
「ある男が100万円をあなたに差し出す可能性」は低いけれど、そんなことを疑いもせずそうなると信じるのは、願いというより祈りだ。願いと祈りは違う。

ストーリーというのは単独で成立しているわけではなく、細部には応力が働いている。
だから、ストーリーを動かすには記述が必要なのだけれど、同時に記述をすればするほど、そのストーリーは終わりに近づくことを意味する。つまり他の可能性は閉じられていく。
可能性が閉じられて人ははじめて願いごとをするんだけれど、それだと遅すぎるんだよね。

では逆に引き寄せを成功させるにはどうすればいいかというと、ストーリーの結末から遡ればいい。
とりあえず既に成ったという設定から、いかにしてそうなったのかの設定を付け加えていく、というのが最も簡単なのではないだろうか。細部が破綻していても、成ったという設定は固定化される。

試しに「私はアメリカ大統領になる」と掲げ、あたかもそうなったという設定で一日を過ごしてみたとする。
大抵の人はバカらしくてすぐにやめてしまうだろう。正にそうだと思うなら、何かの魔法であなたがアメリカ大統領と心と体が入れ替わったとしても「私なんて務まるはずがないと」音を上げてしまうだろう。アメリカ大統領の一日は激務だからだ。
それがあなたが「私はアメリカ大統領になる」と願っても成れない理由だろう。

「1億円を手にする」という願いも同様に、あたかも今手元に1億円があるかのように振る舞ってみると分かる。
1億円は1円でも減れば億ではなく9千9百99万9999円である。1億円手元にあるからといってすぐに何かを買おうとか思わないかもしれない。もしそうなら、1億円があってもなくてもあなたの一日はさして変わらないわけだから、願望達成は最短最速を好むの法則から、何も変わらない。
1億円のうち1万円だけ贅沢をするのなら、わざわざ1億円を手にする必要性はないよね。

仮にもし私に1億円があったらこう使う、という明確なビジネスビジョンがあり、他者をも唸らせることができ、他の誰もできないことならば、おそらく支援者が現れ実現するはずだ。

で、何が言いたいかというと「人は失敗より成功を恐れる」ものなんだよね。
願いつつも叶わないのは、その願いは自分の現状を認めた上に出てきたものだから、今の自分とは程遠い状況であるはずで、なぜその状況になったのか心当たりがあるのならば、そうなったらなったで困るのは自分だからだ。
だから人は失敗より成功を恐れる。

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