今問われる、正義とはなにか?

こんな時代だからこそ正義について考えたい。

正義というのは非常に危うい。パラドックスがある。

みんなそれぞれ正義という概念を持っていると思う。

問題は私が思っている正義とあなたが思っている正義が必ずしも「同じ」とは限らないことだろう。

それぞれが思う正義があるというのは実は正義ではない。

正しく表現すると普遍的ではない。

同じ対象に対して複数の正義があるのは正義ではなく希望という幻想である。

「基本的に私の考えは正しいはずなのに、現実には反映されていない」

このような時、人は不正を感じるのではないだろうか?

では、基本的に正しい私の考えとはなんだろうか?

仮に私の考えが正しいと仮定すると、その正義の寿命は私の寿命と等しくなる。

「私」という主体の消滅とともに消え去る正義というのは、あまりにも軟い存在である。命はかない老人と先行き長い若者とでは、正義の持続性に差が出てしまう。

そこでいやいや違う。

もっと根本的な正義があって、私はそれを参照しているのだ、というかもしれない。

仮に根本的な正義というものがあって、みんながそれを参照し共有しているとする。

するとその参照した正義の解釈が「違う」のかもしれない。

問題は共通でも出した答えが違うようなものだ。ここで重要なのは解釈が違うことと、正義が間違っていることは別問題だということ。

出した答えが間違っているからといって、直ちに問題が間違っているとは限らない。あるいは答えも問題も間違っているかもしれない。

学校でやるような単純な計算問題であれば想定された答えが用意されているので答え合わせができるが、国際的に直面する大きな問題では、答えは用意されていない。

超俯瞰的に全てを知る神のような存在でもなければ答えが分からない。

もしいたとしてもその人が正しい担保がなければならず、その担保が正しいかどうかが分かる人はやはり神と同等の人であり、多分、後に歴史を評価する人ということになると思う。

「違う」という結果を導き出した者同士が答え合わせをしようとすると、当然「違う」という事実が明確になるだけである。

そもそも「違う」のだから比較することはできないし、「違う」のだから無視すればいい。

ところが、無視できない。

なぜ無視できないかというと、全く「違う」というわけではないからだろう。

そういった意味で、喧嘩は似ている同レベルの者同士でしか起きないと言える。

ところどころ「同じ」ものを共有していると互いを無視できない。

全く違うのならそもそも参照している正義も違うので無視できるけれど、部分的に同じものを共有しているということは「解釈の違い」を共有していることを意味する。

解釈の違いを共有しているので、当然行き着く先も「おまえが間違っている」が正しい答えになる。間違いは正さなければならない。

ただし、正す方も間違っているので解決には至らない。

そこでもっと普遍的な正義を立てなければならないと気が付くのだけれど、立てられるはずがない。

普遍的な正義というのはAさんもBさんもCさんも誰もが納得する正義である。

もしA=B=C が正しいのなら証明する必要がないからだ。

本当に正しいものは自明の理が証明してくれる。

つまり公理は証明する必要すらない。

事実はいつだって考えなくったって無料なんである。

証明しなければならない時、それはどこかに不具合が生じた時であり、その時点で誰かが納得していない。

A=B=C が正しいと証明しなければならない時、それを担保してくれる超俯瞰的な存在が必要になる。

国際問題であれば国際司法裁判所ということになるのだろうけれど、国際司法裁判所の考えを担保するのに銀河司法裁判所が必要であり、さらにそれを担保するには宇宙司法裁判所が必要でキリがない。

理詰めで行くとキリがないんである。

要は基本であれ、前提であれ、正義であれ、それを担保として肩代わりするのは、自分の想い(感情)以外ないわけで、集団では力の強いものと声の大きいものに押されがちになる。

正義がないのなら作ればいいじゃないか、ということになり、正義の名のもとに淘汰されて行くことになる。

正義というのは同じ解釈をする者同士でしかうまく機能しないんである。

なので正義を掲げると、それに賛同しない者と必ず戦争になる。

正義を巡る争いには敗けた方がいい。

なぜかというと、正義に勝ちも負けもないからである。

勝つ正義と負ける正義があるというのは、相当怪しいと思ったほうがいい。

常に堅く普遍的な真理が正義である。そして、それは幻想である。

これが戦争によって実体化すると、今度はその正義に縛られることになる。

戦争によって勝ち取った正義は、戦争によって勝ち取ったという事実を内部攻撃(告発)する。

過剰な自己免疫機能に耐えらず正義をかけた戦いは必ず内部分裂を生むことになる。

どうしてかというと、勝った正義は正義が勝ったのではなく、正義を代弁した武力が勝ったに過ぎないからである。

ということは、勝てば正義ということがまかり通ることになる。

アメリカのように武力があることが正義になりかねない。

勝てば正義という風潮が常態化すれば、正義は後からついてくるのでむしろ最初はない方がいい。

勝った後で好きな正義について語ればいいからだ。

正義が何かについては直ちに語れなくとも、武力が正義に置き換わることが間違っていることは直ちに証明することができる。

暴力は正義を代弁しない。

この間違いの指摘は必ず内外で発生し、紛争の引き金になる。

皮肉なことに、正義の名を語り戦う者は必ず後に悪名を知らしめることになる。

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