ネットで忘れられる権利は実現するか? 中編

前回は、ネット社会では個人情報は個人を特定するものではなく、個人を創造するもの、ということを説明しました。

個人情報はネットとリアルという二つの世界に存在します。
ネット上に散乱する自分の情報と、今現在の自分の情報の整合性が取られている場合はいいのですが、バランスが崩れると面倒なことになります。
ネット情報の一人歩きです。

例えば、就活する学生がよく使っていると言われているFacebookがあります。
採用を慎重になる人事担当者は面接する学生のFacebookを見ているかもしれません。

採用されたい学生は、人事担当者が自分のFacebookを閲覧することを想定していることでしょう。当然、「私は良い学生である」というコンテンツが随所に配置されているはずです。

充実したサークル活動、信頼のおける数多くの仲間との写真、社会に目を向けた社会貢献活動、学生時代に表彰された数々の賞など、一分の隙もない位に情報武装していると思われます。

人事担当者は、書類だけでは出てこない学生の素顔を知るために参考にしているはずですが、隙のない情報武装には辟易していることでしょう。
どの学生も金太郎飴を切ったみたいに似たり寄ったりだからです。

「私はこんなに良い学生である」というアピールを保証する担保は、自己弁護しかないことに気が付きます。アリバイがないのです。
そこで考えます。特にネットの情報や学生自らが語るセルフイメージを全面的に信じて現実と違うと失敗した人事担当者は「その他」の情報を求めます。

「その他」の情報とは、本人以外の評価です。
例えば、どこから見ても文句ない人柄のように見えたのに、繋がっている他のユーザーのページを解析すると、コメントをしていなかったり(他者との積極的関わりが皆無)、反社会的であったり、幼稚な喧嘩をしている痕跡を見つけられるかもしれません。

実際にあった話ですが、ゲーム会社に就職したい学生が、ゲームをたくさん知っていることをアピールするためにSNSに様々なレビューを挙げていたことがあったのですが、その学生の年代では到底リアルタイムではプレイすることがないゲームのレビューが上がっていたため、担当者が問い質したところ、違法なエミュレータをしていことが発覚しました。

さらに使用しているグラフィックソフトやOSのシリアルナンバーを尋ねたところ、正規品をクラックした海賊版だったことが分かり、倫理的に問題があるとして採用を見送りになる、ということがありました。

このような自分からすれば「学生はみんなやっていることだし、自分だけじゃないのに」と大したことがないようなことでも、ある立場の人から見ると、問題視されることがあります。

重要なことは、個人的社会と社会的個人は異なるということです。
つまり、世間では本音と建前を使い分けなければならないというとです。
しかし、ネットは個人的社会と社会的個人の本音と建前の両方に面しており、区別はありません。

リアルでは言ったことであれば録音されない限り空気となりますが、ネットでは発言したことはデジタルデータであるため、消さない限り残り続け、コピーされ続ける可能性があります。情報の一人歩きです。
情報をコントロールできないと上記の例のようになってしまいます。

そこで、誰もが考えることなのですが、個人情報を管理したい、という気持ちだと思います。
基本的に個人情報は4つの管理ができます。

・発信
・公開
・訂正
・削除

そのうち自分が完全に管理できるものは「発信」と「公開」だけです。
あとの「訂正」と「削除」は難しいのです。

例えば、ネットで情報の訂正をする時に非常に困るのが、「訂正したい」という情報を発信しなければならないことです。
自分のサーバー内にあるデータであれば、アドミニストレータ権限でどうにかなるかもしれませんが、他人が管理しているサーバ内のデータを訂正するには、「訂正」の申請をしなければならないのです。

なぜかというと、ネットでは本人認証はなにか予め担保がなければ不可能であるため、一度でも情報を発信すれば、次の瞬間にはその情報は匿名化し、たとえ自分であってもコントロールができないのです。

アカウントで管理されたサービス内であれば訂正はできると思いますが、同じくアカウントで管理された他人が発信した「自分の情報」には管理権はありません。ネットで他者に批判をされたとしても、それを訂正するには、「そうではない」という情報を発信しなければならず、その痕跡群は残り続けます。

痕跡(ログ)自体が本人にとってマイナスである場合、火に油を注ぐことになるため、非常に厄介なのです。ケンカした後がありありと残ってしまいます。

一般的に、リアルでは後言は前言を撤回する傾向にあるのですが、ネットでは、前言と後言は同時に存在し、前言は後言より重要視される傾向にあります。
リアルでは発信した情報が記録されない限り劣化し消滅するため、現在に近い情報ほど真実性があると評価されます。

例えば、年齢情報は現在に近いほど価値があります。
40歳なのに17歳と言えば問題があるでしょう。
しかし、ネットでは現在の情報よりも、過去の情報の方が重要視されます。
過去の写真や、過去の発言が現在の発言と180度異なる場合、それはレア情報として注目されます。

個人は変化し成長、あるいは劣化するものですから、当然現時点での情報がもっとも本意のはずです。ところが、不本意なことが起こってしまうのがネットなのです。
ネット上の個人情報が現在の個人情報に集約されず、分岐してしまうのです。
幾つも枝分かれし、パラレルワールドのように個人は細分化されます。

例えば、17歳の時の美しい写真と40歳の時の老化した写真がネット上に存在するとします。その人を知りたいという気持ちが同じならば、写真は若くて美しい17歳の時の写真に価値が生じます。なぜなら、今はそれが失われているからです。選択の自由があればより良い方が選ばれます。

40歳の老化した写真も自分には変わりがないのに、過去の17歳の自分と比較され「老けた」という印象を持たれたとします。これは不本意のはずです。
いきなり老けたわけではなく、プロセスを辿って今があるからです。

しかし、他人はそのように見てくれないかもしれません。
17歳の写真を見つけて、40歳の写真を見た人はプロセスを知らないので「老けた」と評価するかもしれません。

細分化した自己は、より情報価値の高い自己へと上書きされ集約する傾向にあります。癌細胞のように自己を攻撃し続けることになります。あるいは、過大に評価され続ける可能性があります。自分が生み出した幻影に苦しめられ続ける。これは不本意なことかもしれません。

20年後もきっとネットはあるでしょうから、このようなことになっても不思議ではありません。
そこで「削除」を試みるのですが、権限がないのです。

自分の情報なのだから、自分の情報を削除できて当たり前、そうあるべき、というのが多くの人の意見だと思います。
しかし、そうは問屋が卸さないのがネットの怖い所なのです。

続く。

関連記事