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行列の効果で集客力アップ

人は行列を見ると並びたくなる、ということが昔から言われている。
例えば、街中で一人が立ち止まって上を眺めていても誰も気にも留めないが、三人が同じ場所に立ち止まって上を眺めていると、みんなが

「なんだなんだ?」と思って立ち止まる、などとも言われている。

実際、電器屋やパン屋、ラーメン屋などに行列ができていると並びたくなってしまうものだ。
面白いのは、行列に並びたくなる心理は、その行列の視覚的効果なのか、あるいは行列をしてまで手に入れたいモノがあるのか、ということだ。

前者は人が並んでいるから真似したくなる心理だし、後者は行列を作ることが目的ではなく、あくまでもなにかを手に入れることが目的である。

直感的に言えば、行列の効果は前者の方が圧倒的だろう。
なぜかというと、例えば、テレビや雑誌などで紹介されたお店が、紹介された直後に混雑することがある。

これというのは、後者では絶対有りえない。

後者は経験を前提としているので、そのお店を以前利用したことがある人々でなければならない。

既存客が同じ日の同じような時間に一堂に会する偶然というのは考えにくい。
また、新規客が同様に同じ日の同じような時間にそれを一斉に欲しくなる偶然というのも考えにくい。

つまり、人は行列を見ると並びたくなるものなのだと思う。
しかし、行列を見ると並びたくなるといっても、絵や写真として描写された行列はどうだろうか?
人々が並んでいる絵や写真を見た人が、その絵や写真の前に行列を作るとは考えにくい。ハッキリいって有りえない。

なぜなら、絵は絵だし、写真は写真だからだ。
並んでも列が進むことはないし、何かを手に入れられるわけではないことは分かりきっているからだ。

ということは、行列を見ると並びたくなるといっても、行列の先にある

「何か(報酬)」も大事だということだ。葬儀の葬列を見かけたらといって、その後ろにノコノコ並ぶバカはいないよね。

しかし、逆に報酬が非常に大きくても、行列がなければ人はそれが報酬だと気が付かない場合もある。
前述したように、テレビや雑誌に紹介されてブレークした飲食店は、もともと美味しかったのかもしれないが、紹介されたことによって、その美味しさが客観的に認められたのかもしれない。
認められるまでは、報酬の価値は相対的なんだと思う。

確かに美味しいかもしれないが、その美味しさを自分以外の誰かが客観的に認めなければ、晴れて美味しいとは思ってもらえないのではないか?

つまり、「美味しい」にも「個人的に美味しい」と

「世間的に美味しい」があるんである。

世間的に一度美味しいと認められれば、「個人的に不味い」は通用しなくなる。

逆に言えば、一度有名になってしまえば、下手な不味いものを出しても通用してしまうのだと思う。
意味分かるかな?

話は戻って、行列といっても単純に人が並んでいればいいというわけではない。
要するに、なんの利害関係もない人たちが、

同日同時刻に集まる=客観的に魅力のあるモノ という偏見が働いているのだ。

ではなぜ、客観的に多くの人が集まることが魅力的なのか?
平たく言えば、なぜ人は祭りを見ると参加したくなるのか?
それはなぜかというと、報酬の価値は相対的だからだと思う。

報酬の価値が相対的というのは、予めそれが決まっていないということだ。
例えば、現代では千円札を持っていれば、千円以下の価格がついているものが必ず買えることになっている。
日本国内では千円はどこにいっても千円である。価値は絶対的なのだ。

しかし、この千円を海外に持っていくとどうだろう?
日本円が流通していないところでは、無価値かもしれないし、流通しているところでは10倍ぐらいの価値があるかもしれないし、円をドルに換金しないと使用できない国もあるかもしれない。
円という通貨は海外レベルで見れば相対的だということが分かる。

報酬の価値が相対的というのはそういうことである。
我々のすること、してきたこと、というのは盛んに無駄とか有益といった二者択一で仕分けされるけれど、本当は価値は絶対的ではないんである。

だから、どんな行いもどんな財産もある意味、無駄で無意味だと言える。

その証拠に人が死ねば何もかもがなくなる。なくなるといっても、そのモノはなくなりはしない。それに付加価値を見出している主体が消滅すれば、価値の関連性が断たれるということだ。
意味分かるかな?

つまり、前提として全てのモノは無価値で無意味あるからこそ、価値をどこかで見出さなければならないんだよね。
もし最初から価値が定まっているのならば、すなわち何年経っても変わらないのならば気にすることも無い。

現に散歩をしていて道の石ころは気にならないが、500円玉には「おっ」とするはずだ。
お金の価値は絶対だと思っている現代人は多いが、実はお金の価値というのは幻想なんである。石ころの方が何百年何千年も石ころなのに。
人は価値が虚ろなものほど大きな反応を示す。

人が行列に興味を示し、あまつさえ並ぼうとするのは、価値の吊り上げ行為である。
行列に並び価値を吊り上げることで相対的にそれの価値が上昇し、それを得た自分は幸せだという幻想を長く持ちたいからこそ並ぶんである。

談合と一緒である。株の持ち寄りなんかと一緒である。

だから、一度その価値が崩れるとあとは早い。
10年前のアイドルやファッションは常にダサイんである。

よく分からない人のためにもう1つ例を出そう。

例えば、数百年前に生きていた人がいたとする。その人の味覚と、現代人の味覚は大きく異なるはずだ。
今の現代人が「マズイ」といって見向きもしない食べ物でも、昔の人は「美味しい」と言うかもしれないし、その逆も有り得る。

だからといって、現代人が不味くて食えないものでも昔の人が美味しいと食べていたとしても、不幸かというとそうではない。なぜなら昔の人の味覚では美味しいモノだからだ。
味覚が絶対的で今も変わらないのならば、昔の人は食べ物が不味くて自殺する人もいたかもしれないが、そんな話は聞いたことが無い。

つまり、味覚という感覚や価値は、絶対的ではなく相対的なんである。
最初からこれがうまいと決まっているわけではない。
インド人の子供は昔からカレーを食べて育ち、味覚は日本人のそれと異なる。
だからといってその人がおかしいというのは、勝手な勘違いだろう。
味覚というのは育てていくものなのだ。

逆に言えば、最初は何が美味しいのかすらわかっていない可能性がある。
私達が普通に「美味しい」と食べている味覚は実は幻想かもしれないのだ。
もし幻想であるのならば、どこかでこれは美味しくて、これは不味いといった関連性を構築していかなければならない。相対的に手に入る食材とを比較して、これは旨い、これは不味いと関連付けしていく必要がある。

飲食店に人が集まり行列を作るのは、自分の味覚が幻想だから、客観的にこういったものが美味しいという「学習」をしているのかもしれないのだ。
好きなアイドルにも言えることで、こういう人がカッコイイ(カワイイ)と世間が決めているものに追随することで、社会的に不利益を被らないようにしているのかもしれない。

人の見かけも絶対的に決まっているわけではなく相対的に決まるからだ。
ルックスというのは幻想なんである。

つまり、人が客観的に集まるところに集まることで、ハズレを極力引かないようにする習性が人々にはある、ということだ。多くの人が選択することに間違いは無い、という判断である。

しかし弊害もある。民心主義国家は「多くの人が選択することに間違いは無い」という多数決制だけれど、戦争はするし貧困もなくならない。
なぜかというと、「多くの人が選択することに間違いは無い」という判断をする人が多数いることが分かっていれば、逆に言えば「少数の人が選択したことには間違いがある」ということだからだ。

多数の人が多数を選ぶことがない民主主義は、多数の人がほんの一握りの少数を選んでしまう。

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