カジノ資本主義の終焉 迫る第三次世界大戦 中編 その2

農業では食べて行けない失業者で溢れる未曾有の不景気。都市と地方の格差社会。

それを解決したのが製造業(モノ作り)とアウトソーシング(奴隷制)です。

農業に適した肥沃な土地では農業をし、農業に適さない土地では製造業が興り、食料とモノの交換が行われます。やがてモノの方が価値が生じ、モノとモノとが交換されるようになります。

交易路としてのシルクロードは有名ですよね。

製造業が盛んになると必要となるのは労働力です。

労働と言えば奴隷の惨めなイメージですが、今風に言えば住み込みで働くようなものです。労働を対価として終身雇用で衣食住が保障されます。

身分と分業が進み自由度が低くなる代わりに、安定した職につくことができたのです。

多くの労働者を雇うには、巨大な公共工事が必要です。

エジプトの巨大ピラミッド群は巨大公共工事の後です。

例えば、ユダヤ人の祖先となるヘブライ人達は、元々遊牧民で勢力が小さかったためメソポタミアの肥沃な土地に住むことはできませんでした。そのため肥沃な土地を求めて豊かなナイル河の恩恵を受けるエジプトへと旅立ちます。

旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされています。

彼らは「移住民」という意味の「ヘブライ人」と呼ばれました。

この付近で遊牧生活を続けたヘブライ人は、紀元前17世紀頃カナンの地から豊かな古代エジプトに集団移住します。

しかし、ヘブライ人達はよそ者であったため、土地を手に入れることはできず、この地で奴隷となります。

つまり、住み込みで働き公共事業に参加するようになったのです。

日本で言えば人口密集地の東京で、高い賃貸を払い続けるためだけに働く派遣労働者のようなものです。

その後、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たします。海が真っ二つに割れる出エジプト記です。

独立して起業を目指したわけです。

モーセはシナイ山で神様から十戒(10の基本ルール)を授かります。

彼らは神から与えられた「約束の地」であるカナンの地()に辿り着きます。

この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる抗争の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着することになります。

(後々出てくるイスラエルのパレスチナ問題へと繋がります)

この頃からヘブライ人(移住者)は「イスラエル人」を自称するようになります。

では、モーセが神から与えられた「約束の地」とはなにか?

まぁこれがややこしい問題なのです。根拠が曖昧なのです。

ある神様がいて、モーセ達にここがおまえが住むべき「約束の地」だというのが根拠になっているのです。

約60万人がどかどかやってきて、そこに住む人達に「ここは我々の土地だから」と一方的に立ち退きを要求できるのか? という問題です。

大体、その神様はなんだ? という話ですよね。

この流れはずっとずっと複雑に続き、現在の一触即発のイスラエルとイランの関係へと繋がっています。伏線なのです。

もう少し掘り下げます。

中東は昔から土地を奪い、奪われの繰り返しをしてきました。

土地の侵略を繰り返して行くと困った問題が起きます。

そもそもその土地に住んでいた人達の所有権と、その土地を奪った人達の所有権がごちゃごちゃになるからです。

同じ土地を繰り返し違う民族が断続的に支配することもあります。

国の境界線も曖昧です。生活様式の違う多民族が集まると必ず価値観で揉めます。

取り決めをきちんとしておく必要があります。

そんな中で発達したものが暦(太陰暦)と司法制度、文字です。

バビロニアのハンムラビ法典は有名ですよね。

楔形文字で「目には目を、歯には歯を」と書かれています。

文字は常に過去を照らしています。過去に書かれた情報がずっと後世に残ります。勝手に変わったりすることはありません。粘土板や意思に刻んでおけば作った人が死んだ後、数千年は残ります。

CD、DVD、HDなどは50年も持たないので、現代の保存技術よりも格段に進んだ情報化社会です。

つまり、過去に取り決めた情報()を元に、司法が行われます。

喧嘩ばかりしてる人達がいれば、ルールが必要になるのは当然のことです。

ところが、根源的な問題が生じます。

司法制度はいいとして、そのルールの正当性はどこにあるのか? という問題です。

例えば、自ら進んで奴隷になったのならいいのですが、生まれながらにして奴隷として生まれた人達はその搾取に納得はしないでしょう。

なぜ支配する側と支配される側がいるのか? なぜ生まれながらにして貧富はあるのか? 誰が決めたのか?

もし奴隷である身分に反対ならば、正当性を主張しなければなりません。

正当性は「なぜならば」の演繹法で導きだされます。

Dが正しい。なぜならばCがDの正しさを担保しているからだ、とします。

すると、今度はCの正当性を知りたくなります。

すると、Cは正しい。なぜならばBがCの正しさを担保しているからだ、となります。同様に、Bの正しさはAから導き出されます。

しかし、これを繰り返して行くと、いつかは限界が来ます。

その限界とは、記録にないことです。

記録にない、人々の記憶にないことまで遡っていくと、演繹は破綻します。

原初のAが破綻するとその後に続くBCDEFGは全て間違いになります。

正しさ、というのは、必ずその正しさを認める傍観者(記録機器)とセットで語られるものなのです。

「なぜならば」と遡って行くといつかはおぼろげな伝説と化します。

こうなると最終的には「神様が決めたから」と破天荒なオチでこの問答を終わらせるしかありません。

大昔に神様が決めた、それが根拠だ、ということです。あとはそれを教え(状況証拠)として積み上げていくしかありません。

神様をもってくるというのは極論です。言ったものがちです。

「こっちには神様がいるんだからな」と言えばなんでも通用する水戸黄門の印籠と同じです。

とは言え極論は極論です。

例えば、ここの土地は元々は俺達のものだ。そう神様が決めたのだ。だから、奪い返すのだ。という論理展開があったとします。

ではその土地に住む人達は「大変すみませんでした」と出て行ってくれるかというとそうではありません。

「そんなものは知ったことか」「追われた我々はどうなる!」となります。

相手が極論を出すなら、こっちも極論を出すしかありません。

そこで、神様に対して別の神様が出てきます。いわゆる宗教対立です。

民族対立は宗教対立です。

宗教=教祖の教えが負けるということは、根拠根源を失うということです。

根拠根源を失うということは、その民族の主張の正当性を失う、ということに等しいのです。

現代の日本では政教分離が原則で、政治と宗教は別々となっています。

しかし、古代国家では政教一致が原則です。

その国の王は大抵、神様の子孫か神様に選ばれた者、ということになっています。

そうしないと、国民を納得させる根拠がないからです。

自分が神である、神の代弁者である、という設定であれば国を自由に動かすことができて便利です。

「ただの人なんです」なんてことがバレるとクーデターを起こされかねません。

ところが、人は老いて死にます。ギルガメッシュ叙事詩にも出てきた絶対的な神が死ぬ、というのはおかしな話です。

神様に死なれると困ります。根拠がなくなってしまうからです。

根拠がなくなってしまうということは正当性を失うことになります。正当性を失うということは、アイデンティティを失うということであり、滅亡を意味します。アイデンティティの喪失は最も恐るべきことなのです。

アイデンティティを保つものは篤い信仰です。そのため中東で生まれた三大宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教は厳しい戒律と信仰を重んじています。

なによりも根拠が大事で、根拠がなくても信じることが大事なのです。

そんなわけで、神様は必ず教えやお告げといった根拠を文字として残します。情報化しておくわけです。

例えば、自分の息子が正当な後継者であり新たな神である、みなさん彼の言うことを聞きましょう、とでも記しておけば死後も安心です。

次の神は気に入らなければ、改変したり追加すればいいわけです。

中東には世襲の独裁者が多いのです。

後編に続く

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