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引き寄せの法則 その6 私の世界はあなたの世界と等しいか?

前回は、エヴァレットの多世界解釈について説明しました。

無限の可能性がある多世界が証明できるのはもっと先のことだして、しかし、「私が見ている世界は、私が意識しているときだけ存在する」理由についてはよく分からないのですが、仕組みが分からないからといって、それが存在しないわけではありませんよね。

結果は分かっているけれど、単に説明ができないだけなのです。

ここでそろそろ引き寄せの法則に戻ります。

引き寄せの法則とは、自分の抱いている願望が磁石のように自然と引き寄せられる現象のこと、と最初に述べました。

これは世界が可能性の塊である、という解釈を知ればなるほどそうかもしれない、と思えてくると思います。

引き寄せについては、詳細が分からない怪しい現象でも、重力や磁力については信じられると思います。

そもそも、世の中には引き寄せという現象が普通に存在し、我々はそれを普通に利用しています。

モノがモノを引き寄せるというのは別におかしなことではないのです。

人間も惑星も磁石もミクロ的には原子の集まりであり、粒子の集まりです。

だから、惑星の重力と磁石の磁力を認めて、人間の引き寄せを認めない、というのもおかしな話なのです。

もちろんなぜ引き寄せられるのかはまだ分かっていません。

ただ理解しにくいのは、二重スリット実験でもあったように、観察行為や意識するという主観を客観的に説明できないことです。

常に私がそうしなかったそれ以外が、私がそうしたことなのです、という帰納法に陥ってしまうのです。

例えば、コインを投げるコイントスをして、表が出たとします。

すると、自動的にコインの片方は裏として確定します。

コインが表であり裏である、ということは有り得ないのです。

よって大抵の人は確認をするまでもなく、表でないとしたら裏であると考えます。

確認をしなければ分からないことなのに、確認をしなくても分かるような気でいるのは記憶であり、経験です。

記憶や経験というのは現実ではないので仮想ということになります。

コインが表であるとき、裏である、という対偶証明は常に仮説に過ぎないのです。

その証拠に、コインが表であるとき裏であることを証明するために、もう一度コイントスをすると、今度は裏が出るかもしれません。

こんなことを100回ほど続ければ、コインは常に表ではない、ということが分かり、確率としてはおおよそ2分の1であることが分かります。

大数の法則知られるコインが表か裏である確率というのは、ものすごい回数を投げてはじめておよそ2分の1となります。

もし仮にここで10回投げても連続して表が出続けたら、その人にとってコインは表しか出ない、という世界が出現したことになります。

これは直感に反して理解しにくいですよね。

なぜなら、コインは大抵表か裏しか出ないと経験則で知っているからです。

逆に理解できるパターンとしては、演繹的にまず宣言をします。

例えば、「隕石よ目の前に落ちろ」と宣言します。その瞬間に実際に目の前に隕石が降って来たら、引き寄せというのは大変信頼のおけるものとして認識できるはずです。

金が欲しいと念じた瞬間にお金が出現したのならば、その法則性が信じられると思います。しかし、これは多分起きません。

無限の可能性は秘めていても、確率が非常に低いことだからです。

また、「私が見ている世界は、私が意識しているときだけ存在する」といっても目を閉じたら、閉じている時だけ世界が消えて霧状のようになっているかというと、そうではないような気がします。

証明はできないのですが、まばたきする度に世界がオンとオフに切り替わる、というのも解せませんよね。

ポイントはなにかというと、可能性という確率なのです。

例えば、自分の意思で隕石を引き寄せられる可能性と、自分の意思で手を持ち上げられる可能性について考えてみます。

前者の可能性は大変低く、後者の可能性は大変高い、ということは直感で分かります。

特に自分の意思で手を持ち上げられる可能性というのは、主観的に調べることができます。手を持ち上げてみればいいからです。

実験の結果を直接フィードバックできますよね?

しかし、ここで疑問が生じるはずです。

二重スリット実験を思い出してみてください。

隕石も自分の手も同じ原子によって構成されており、粒子でもある、ということです。

隕石は引き寄せられないけれど、自分の手なら動かせる、というのは奇妙だと思いませんか?

さらにその手を動かしていると思われる脳も原子によって構成されており、粒子でもあるのです。

粒子の振る舞いは無限の可能性であり、サイコロの集合体のようなものだという話は前述しました。

ならば誰がサイコロを振り、その粒子の振る舞いを決定しているのか? ということになります。

もちろん、その理由はいまだ謎なのですが、結論としては分かっていることがあります。

「起きやすいことは起きる」

当たり前のように思える結論ですが、実はすごい発見なのです!

「起きやすいことは起きる」ということを理解するために、分子結合について考えてみるといいと思います。

分子というのは原子が化学的に結合したものですよね。

原子がどのように結合するかによって分子の性質が異なります。

例えば、水分子はH20で表せますが、O(酸素)1つの原子にH(水素)2個が結合しています。酸素原子には電子が2つ入る余裕があり、水素原子は電子が1つ入る余裕があります。

そこで、2つの水素原子と1つの酸素原子が、互いに電子を出し合って共有結合したものがH20(水分子)です。

我々の体の多くは水分でできていますが、ミクロの視点では「起きやすいことは起きる」というのはごく当たり前に起きているということです。

電子は前述したように確率的に存在するという不思議なものでしたよね。

原子核の周りを回っていることは分かっていても、その場所は常に動き回っているため特定できず、確率的に求めることしかできない、という話をしたと思います。

確率的存在がミクロとマクロの世界で起こる違いである、ということが二重スリット実験で明らかにされています。

分子結合であれ、イオン結合であれ目に見える多くのものは、実は確率によって引き寄せられて構成されていると言っても過言ではないのです。

そして、原子などの小さな単位となると、それに違いはなくなります。

同位体の違いはあっても、原子は原子なので交換が可能なのです。

良い原子だとか悪い原子もないし、いびつな原子や正しい原子というものもありません。

例えば、AさんとBさんがいてマクロ視点では他人ですが、ミクロ視点だと同じになります。

小さく小さく見ていくと、その構成要素は一緒になってしまうのです。

では、違うのはなにかというと、その状態ということになります。

つまり、引き寄せという現象もミクロ視点で見れば確率的な粒子の移動に過ぎない、ということです。

なぜなら現象を構成している粒子が確率的に振舞っているからです。

ベースがそうなのだから、そこから派生するものの根源になるはずなのです。

ではどうして隕石が目の前に落ちてくる、という現象は起きないのでしょうか?

理由はやはり確率にあります。

「起きやすいことは起きる」

というのは、逆に言えば「起き難いことは起き難い」ということです。

確率はゼロではないけれど、可能性は大変低いのです。

皆さんがもっとも興味があるのは、ではどうすればその可能性を高めることができるか? だと思います。

可能性を高めるにはどんなことをすればいいのでしょうか?

特別な訓練や修行、大掛かりな装置が必要なのでしょうか?

実は可能性を高めるには面倒な準備は必要なく、ただ可能性を選択するだけでいいのです。

どうしてかというと、エヴァレットの多世界解釈でも説明したように、既に並行して無限の世界が存在しているので、それをカタログから選ぶように選択すればいいのです。

ここで疑問に思うのは既に起きてしまった過去や、辻褄をどう解決するのか? だと思います。この謎を解く鍵は粒子が確率的に存在することです。

今我々が認識している世界というのも粒子が確率的に存在し作り上げている世界です。

この世界が確率的に存在していることを知るには、逆説的にこの世界は予めこうなるように定められていた、と考えてみることです。

その後で、サイコロの目を予想して投げてみてください。

予め決まってないことが分かるはずです。未来は不確定なのです。

つまり、常に無限の可能性が広がっており、自分はその無限の世界のひとつにいる、ということです。

ただし、そうならなかった世界()というのは観測できないので、反証を前提とする現代科学では証明するのは難しいのです。

さて、ではこの世界を観測している者はなにか? もし観測者がいなければこの世界はどうなるのか?

観測者がいなければこの世界というのは存在しないも一緒なのです。

二重スリット実験のように、観測してはじめて認識できるのがこの世界です。

観測者もまた確率的に存在する粒子によって構成されています。

何が言いたいかというと、ものごとというのは決まっているようで決まっていなし、過去や未来というのもあるようでないのです。

認識してはじめて一瞬に立ち表れるものと言えます。

世界を認識している観測者である我々をベースとして考えた場合、相対的に現象が存在しているのです。

時間は過去から未来へ流れているという認識ですら、結局はそれを認識するという観測者あっての前提なのです。

つまり、観測者次第でこの世界の在り方も変わるということです。

ポイントは観測者の認識する世界と、実際の世界(観測者がカバーしきれない世界)にはズレがある、ということです。これは相対性理論に関係してきます。

常識的には観測者がいなくても観測していなくても、世界は超然とそこに在り続けると考えられています。

固定であり不変であると考えられています。

たかが人間の観測者一人の影響で世界が消えたり現れたりすることはないと考えられています。

もちろんその考えでおおよそ正解なのですが、あくまでもこれはマクロで巨視的に考えた場合です。

実は、ミクロ的視野で捉えると違った解釈ができるのです。

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